北鎌倉はお寺、観光、静かな住宅地の町と思われがちですが、ものつくりの方が多く住んでいるまちでもあります。では昔はどうだったか、その一部をご参考までに抜書きしてみました。
木村彦三郎氏の労作『鎌倉の門前町調査報告 その二 山ノ内門前町関係』より
『後北条氏の滅亡後関東の領主になった徳川氏は、寺社領の整備を行い、各地に分散していた寺社領を、その寺社に近いところに寄せる方針をとった。山ノ内の大部分が円覚寺領となり、建長寺は小町と十二所に寺領をもち、東慶寺は十二所、二階堂に寺領を有ち、浄智寺は山ノ内に寺領をもつようになった。(5)
山ノ内は、建長寺、円覚寺の門前が南北に貫かれた道の両側に発達し、東慶寺、浄智寺の門前に僅かの領民が住んでいた。したがって、山ノ内の門前町は円覚寺、建長寺に集中していたといってもよい。そのなかで円覚寺の寺領は山ノ内全域にわたるが、円覚寺門前は上町から下町までの高持百姓七十数軒と店借、地借二十軒ほど、小作百姓十軒ほどから成り、建長寺門前には寺領百姓はないが、居屋敷をもち建長寺の御用を達す三十数軒があり、山ノ内はこれらを合せた住民から成っていた…(6)
十三世紀校半に建長寺の創建からはじまり、臨済禅の大伽藍が、山ノ内に相ついで建てられ、その建設に従事した諸職人や、寺院の経営に参加した俗人、半俗人、たとえば行者、目代、門番のような人たちは、境内に住まず門前に所帯をはったといわれている。そうした人たちの子孫が現在でも建長寺や円覚寺門前に住んでいる。(6)
…円覚寺領の百姓の密度は、零細ともいえる。この数字だけで円覚寺領民を量ることはできない。円覚寺領民は円覚寺門前町という、町場的な経済に支えられている点が、前記の純農村型とはちがっている。…住民構成から見ると、円覚寺創設以来の工匠、行者をはじめ、寺役人(目代とよばれる)、典医(寺抱えの医者)など、寺から直接扶持をもらって生活している家や、紺屋、鍛冶、木挽、石工、桶屋、佛師、畳屋、塗職、屋根職、武具などの諸職人。紙屋、糸屋、扇屋、釘屋、炭屋、板屋、ろうそく屋などの商人。酒屋、醤油屋、糀屋、餅屋、菓子屋、油屋、豆腐屋などの食料品。湯屋、旅篭、小料理店などの接客業、質商(四軒もあった)、金融業などがあったことが、記録からうかがえる。このように円覚寺門前町は、領民が兼業としてなり立つ仕組みによって支えられていた。鎌倉のうちでもこれほど、商人、諸職人、接客業、質屋などが集まっていた村は、江戸時代にはなかった。(11-12)。』
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